秀吉に改易された宇都宮国綱が抱えていた「内憂」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第70回
■関ヶ原における「内憂」
国綱は、御家再興のために、慶長の役にも参陣したと言われています。小西行長(こにしゆきなが)が守る順天城での戦いで武功を挙げたようですが、秀吉が病死してしまっていた事もあり、大名復帰の話は立ち消えとなったようです。
その後は、五大老の筆頭として大坂城に詰めていた徳川家康に近づき仕官しています。関ヶ原の戦いは徳川方が勝利したものの、御家再興は叶いませんでした。
匡綱の弟である芳賀高武(はがたかたけ)が、石田三成の元で戦っていたと言われています。また、三弟の朝勝も上杉景勝(うえすぎかげかつ)の元で、佐竹家との交渉や宇都宮遺臣の煽動を行っていました。
この時、弟を含む宇都宮家の遺臣たちが西軍方として行動してしまった事で、国綱は思うように軍勢を招集できず、御家再興の機会を逃してしまったようです。
国綱は失意のまま諸国を転々とし、最後は江戸にて病死したとされています。
■「外患」よりも厄介な「内憂」
国綱は「外患」北条家の圧力により、弱体化していく中、周辺勢力と合力しながら御家存続に成功しました。しかし、強力な敵が消滅すると、家中での方向性の相違による「内憂」が目立つようになり、最終的には所領を失うことになります。
現代でも、一致団結して外部との激しい競争を勝ち抜きながらも、その後の内部闘争によって崩壊してしまう例が多々あります。
宇都宮家も、もし家中の統制がとれていれば、奥羽あたりで大名として存続できていたかもしれません。
ちなみに後継者候補と言われていた浅野長重ですが、その後、家康の引き立てにより、浅野宗家とは別に立藩し、忠臣蔵で有名な赤穂藩(あこうはん)の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)へと繋がります。